「自分を大切にしてね」
「一度立ち止まって、心の声に耳を傾けてみて」
そう言われるたび、どこかモヤモヤしていた時期があります。
もちろん、それが必要な人もいると思います。
けれど私にとっては、立ち止まること自体が不安を大きくする原因でした。
癒しより、行動すること。
その方がずっと、自分らしくいられたのです。
癒しより、動き続けることが整え方だった
40代に入ってから、いろんな出来事が一気に重なりました。
家族のこと、仕事、家事、自分の体調…。
目の前のことをひとつひとつ丁寧に扱う余裕なんてなくて、
「とにかく前に進むしかない」
そうやって毎日をなんとか回していました。
ある日、「頑張らなくていいんだよ」と言われたとき、
ふと、心の中でイラッとしてしまったんです。
きっとその時の私は、
“頑張っている自分”こそが、バランスを取る手段になっていたから。
癒されるよりも、進むことで安心できた。
「止まらないこと」が、自分の整え方だったのだと思います。
モヤモヤの中で動いていい
心がざわざわしているとき、
本やSNSでは「一度止まって、呼吸を整えて」とよく目にします。
けれど私には、それがうまくできませんでした。
静かに自分と向き合うことで、逆にどんどん自信がなくなっていく。
反省が反省を呼んで、気持ちが沈んでしまう。
そんな自分を責めたこともあります。
でもある日、こう思いました。
整ってから動こうとするから、苦しくなるんだ。
むしろ「モヤモヤのまま動く」方が、私には合っていたのです。
やってみることで、状況が変わることもある。
動いているうちに、気持ちが整理されることもある。
動きながら整える。
それが、私が40代で見つけた、ちょうどいいスタイルでした。
「癒されない私」も、ちゃんと価値がある
「癒されたい」と思えない自分に、罪悪感を持っていた時期もありました。
周りは「丁寧な暮らし」や「わたし時間」を大切にしているのに、
私はその時間を作ろうとすればするほど、なぜか落ち着かない。
そんな自分が、ダメなんじゃないかとさえ思っていました。
でもある日、ふと湧いてきた言葉がありました。
癒されないままでも、ちゃんと前に進んでるじゃない。
たとえ疲れていても、完璧じゃなくても、
今日という一日を生きている自分がいる。
誰かのために何かをしている時間も、
すべてが私という人間を形作っている。
癒されない私にも、ちゃんと価値がある。
そう思えたとき、心がふっと軽くなったのです。
「わたし時間」がなくても、自分は育っている
最近は、「自分の時間」にこだわらなくなりました。
家族と過ごす時間、親を気づかう時間、
職場で誰かを支える時間——
どれも“私のため”ではないけれど、確かに私自身を育ててくれている時間です。
暮らしのなかに、自分が確かに存在している感覚。
それは、静かな部屋で過ごすひとときとはまた違う、
リアルな“わたしらしさ”なのかもしれません。
40代、「立ち止まらない私」も整え方のひとつ
癒しの時間に救われる日も、きっとあると思います。
でも今の私は、
「止まらないままでも整っていける」
そんな生き方を選んでいます。
モヤモヤしていても、少し疲れていても、
前を向いて進んでいる自分を信じる。
それだけで、ちゃんと整っていける気がしています。
40代は、「こうあるべき」から自由になれる年代。
立ち止まらない私も、私が大切にしている“わたし”の一部です。