40代になってから、人との会話の中でふと立ち止まる瞬間が増えました。
話すよりも、“訊く”ことのほうがむずかしいと感じるようになったのです。
私たちは日常の中で、出身地や家族構成、子どもの有無などを、特別な意図もなく交わすことがあります。でもある日から、私はそれらの問いかけを、少し慎重に扱うようになりました。
私が“訊くこと”の重みを知ったのは
それは、東日本大震災のあとでした。
震災の影響で大切な家族を亡くされた方と接する機会がありました。
いつものように「ご家族は?」と尋ねそうになった自分に気づき、ふと、その言葉を飲み込んだのです。
それまで何のためらいもなく口にしていた質問が、誰かにとっては深い痛みを呼び起こすものなのだと、はじめて強く意識しました。
あの日から、私は考えるようになりました。
「訊くことは、相手の背景に触れること。だからこそ、配慮が必要なんだ」と。
質問が“地雷”になることもある
出身地、兄弟の有無、子どもがいるかどうか、結婚しているかどうか。
それだけでなく─
年齢や年収、健康状態、妊娠、宗教、政治的な考え、身体的な特徴や精神的背景まで、
一見、何気ない会話に見えるものの中に、相手を傷つけてしまう要素は数多く存在します。
その人の人生に、踏み込んでしまうかもしれない。
それが「訊く」という行為です。
だからこそ、相手との関係性や空気感、そして表情や反応をしっかりと見つめることが、今の私にはとても大切なことに思えます。
想像力は、最高のマナーになる
「この質問は、自分がされても平気だから大丈夫」
そう思うことはあります。でもそれは、自分の物差しだけで会話しているということ。
家族構成を訊かれて動揺する人。
妊娠について触れられて、言葉に詰まる人。
宗教や政治信条を聞かれて、不安になる人。
想像力を持って会話することは、やさしさのひとつだと、私は思います。
「知りたい」より「信じたい」
知りたい気持ちが湧いてきたとき、私はこう問いかけます。
「今それを聞くことは、相手のためになるだろうか?」
本当に必要なことなら、きっと相手のほうから話してくれる。
そう信じて、私は言葉を少し控える勇気を持つようになりました。
知ることよりも、信じることを選ぶ。
そのほうが、心地よい人間関係が育つと感じています。
40代からの会話には、少しの余白を
若い頃は、沈黙が怖くて言葉を埋めていた私。
でも今は、黙ってそばにいるだけで、伝わるものがあることを知りました。
話すこと、訊くことだけが、コミュニケーションではないのだと。
会話のなかに余白があってもいい。
無理に言葉で埋めずに、静かに寄り添える人でありたいと思います。
訊く前に、ひと呼吸。
これからも、出会う人たちとの会話のなかで
「その言葉は、やさしいだろうか?」
と、自分に問いかけていきたい。
40代の私だからこそ持てる“想像力”と“間合い”を、大切に。
それはきっと、心地よい暮らしと、私自身を守ることにもつながるから。