最近、「ボーダレス」「バリアフリー」「多様性(ダイバーシティ)」といった言葉を耳にする機会が増えました。
性別、年齢、国籍、障がいの有無を超えて、誰もが生きやすい社会を目指そうという流れは、とても大切なことです。
けれどふと、あるとき思ったのです。
本当に多様性が根づいているなら、「ボーダレスであること」を、わざわざ語る必要はないのかもしれない——と。
言葉にならない“やさしさ”が息づいている場所
私がときどき足を運ぶ、小さな自然食品のお店があります。
そこでは、車椅子の方にも、ベビーカーの親子にも、外国の方にも、誰に対しても同じ目線、同じ距離感で接してくれるスタッフがいます。
特別な案内も、ポスターも、わかりやすいアピールもありません。
けれど、そこにあるのは、あたりまえのように流れる「違いを受け入れる空気」でした。
それはきっと、「ダイバーシティに配慮してます」と言わなくてもいい、やさしさのかたち。
言葉にしないからこそ、伝わってくる安心感がありました。
40代になって気づいた、“線を引かない心”
若い頃の私は、何かと「これは正しい」「あれは間違い」と、無意識に白黒をつけたがっていた気がします。
でも40代になり、体調の揺らぎや家族の変化、仕事との距離感に悩む中で、「人はそれぞれ違ってあたりまえ」という感覚が、ゆっくりと育ってきました。
誰かの話すスピードが遅くても、言葉選びが自分と違っても、それは「その人らしさ」であって、否定する必要はない。
違いを受け止めることは、実はとても自然で心地よいことなのだと気づき始めています。
語らずに滲むやさしさが、いちばんあたたかい
もちろん、制度として多様性を発信したり、ポスターで呼びかけたりすることには意義があります。
でも、私が「ここは居心地がいいな」と思える場所には、いつも“語らずともあるやさしさ”がありました。
混雑した電車でさっと席を譲ってくれる人。
エレベーターで何も言わずにボタンを押さえてくれる手。
理由も説明もいらない、自然な配慮や視線。
誰にも気づかれないかもしれない、けれど確かに存在しているやさしさに、私は何度も救われてきました。
多様性とは、“整った心”から生まれるもの
40代になって、少しずつ気づき始めたのは—
多様性とは、外に向けて「掲げるもの」ではなく、内側の“整った心”からにじむものだということ。
人との違いを恐れないこと。
「こうあるべき」という型を押しつけないこと。
自分の中にある「線引き」に気づいて、手放していくこと。
そんな小さな意識の積み重ねが、「語らないボーダレス」につながっていくのではないかと思うのです。
語らずとも、やさしさが流れる社会へ
多様性という言葉を使わなくても、それが暮らしに自然と根づいている世界。
「ボーダレスです」と言わなくても、すでにそこに共存がある空間。
そんな日常が少しずつ広がっていけば、きっと私たちはもっと自由に、もっと優しく生きられるのではないでしょうか。
言葉ではなく、空気のようにただそこにあるやさしさを、
これからも自分の暮らしの中で、そっと育てていけたらと思います。