「雑草を抜かない実家の庭」が教えてくれた、40代の心の整え方

心のケア

お盆に、実家へ帰りました。
今回私の心に静かに残ったのは、実家の庭の風景でした。

昔はこまめに手入れしていた庭も、今ではところどころ草が伸び放題。
「ちょっと荒れたな…」と思いつつ、よく見るとそこには、どこか穏やかな空気が流れていました。

雑草の中に、小さな花が咲いていて、蝶やトンボがその周りを飛んでいる。
完璧ではないけれど、なんだか“自然体”で、見ているだけで心が落ち着いたのです。

雑草を抜かないという選択

かつての私は、きれいな庭=整えられた庭、だと思っていました。
雑草は見つけ次第すぐ抜いて、花壇の形を崩さないように気をつけていたものです。

けれど、実家の庭を見て感じたのは、
「雑草があることでしか生まれない美しさがある」ということ。

抜かれてしまう草にも、季節の営みや命の息づかいがあって、
少し放っておいたからこそ、その自然な姿が残っている。

まるで、人の生き方のようだなと思いました。

40代の今、「整いすぎないこと」の心地よさ

40代に入り、少しずつ人生の“ゆるみ”を受け入れられるようになってきました。

若い頃は「完璧に見せること」「ちゃんとしている自分」でいようと必死だった私。
時間管理、仕事、家の中、人間関係…隅々まで気を配って、
少しでもほころびが見えると自分を責めていた。

でも、実家の庭を見たときに、ふっと肩の力が抜けたのです。

「全部を整えなくても、ちゃんと“風景”になるんだな」

暮らしも、人との関係も、自分自身も。
多少の雑草があったっていい。
それがあるからこそ、深みが出て、自然体でいられるのかもしれません。

雑草は、人生の“凸凹”の象徴かもしれない

雑草って、私たちの「思い通りにならないこと」の象徴のようにも思えます。

忙しい日々の中で生まれる焦り、うまくいかない人間関係、老いへの不安…。
どれも“抜きたくなる”感情だけれど、無理に排除しようとすると、心が疲れてしまう。

それよりも、あることを認めて、少し距離を取りながら付き合っていく。
それが「共生」なんだと、実家の庭が教えてくれたようでした。

雑草を抜かない暮らしがくれる、心の余白

帰省から戻った私は、家のベランダの鉢植えのまわりに生えていた小さな草を、いつものように抜こうとして、手を止めました。

「これはこれで、ちょっとかわいいかも」

そう思えたのは、実家の庭のおかげです。

暮らしの中の“雑草”──それは、自分の欠点だったり、思い通りにいかない現実だったりするかもしれません。
でも、それもすべてを抜かずに、少し残しておくことで、暮らしに“余白”が生まれます。

余白があると、呼吸がしやすくなり、人にも自分にもやさしくなれる。
そして、それが「心地よい暮らし」の土台になる気がしています。

完璧じゃない庭から始まる、しなやかな生き方

実家の庭は、きっとこの先も少しずつ草が増えていくでしょう。
でも、それを抜かずに受け入れていく母の姿が、
私にはとても強く、そしてしなやかに見えました。

40代のこれからは、整えすぎないこと、無理に変えようとしないこと、
そんな“ちょうどよさ”を探していきたいと思います。

雑草を抜かない庭。
それは、心に雑草を抱えたままでも、優しく暮らせるヒントに満ちた場所でした。

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