見返りを求めず人に寄り添う―会ったことのない曾祖母が教えてくれる、やさしい強さ

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会ったことのない人を、なぜこんなにも想うのか

私の誕生日は、母方の曾祖母の命日です。
会ったことは一度もありません。でも、彼女のことを思い出すたび、
胸の奥にやわらかな光が灯るような気がします。

母から何度も聞いた話があります。
曾祖母は、とにかく人にやさしい人だったと。
知り合いでなくても、困っている人を見かけたら「ご飯を食べていきなさい」と自宅に招いた。
お金のない人にも施しを惜しまなかった。
そんな話が、まるで童話のように、私の記憶の中に刻まれています。

強さとやさしさは、きっと両立する

曾祖母は若くして夫を亡くし、7人の子どもを女手ひとつで育て上げたそうです。
想像もつかないほどの苦労をしながらも、誰に対してもやさしく、分け隔てなく接した人。

きっと強い人だったのだと思います。
でも、その強さは怒りや厳しさではなく、やさしさとして表れていた。

「施す」という言葉は今ではあまり聞かなくなったけれど、
それは見返りを求めずに差し出す心なのかもしれません。
損得ではなく、ただ“目の前の誰か”を思って行動すること。
その潔さが、何よりの強さなのだと、40代になった今、ようやく分かる気がします。

現代ではむずかしい、でも忘れたくない姿勢

正直、今の社会で同じように生きるのは難しいと感じることもあります。
時間にも心にも余裕がない日々の中で、「誰かにやさしく」と思っても、
どこかで“損にならないか”を計算してしまう自分がいます。

でも、曾祖母のような生き方を完璧に真似する必要はないのかもしれません。
たとえば、誰かが落とした荷物をそっと拾

悲しそうな顔の人に「大丈夫?」と一言だけ声をかける。
ほんのささやかなことでも、心を向けるという行動自体に価値がある。

そんなやさしさを日常の中に少しずつでも持ち続けていたいと思うのです。

命日と誕生日という、不思議なつながり

曾祖母の命日は、私の誕生日。
それを母から聞いたとき、不思議な気持ちになりました。
まるで「あなたも人にやさしく生きなさい」と言われているような気さえして。

私は彼女に会ったことがないけれど、命日が誕生日であるという偶然が、
どこかで「私の中にも曾祖母の何かが受け継がれているのかもしれない」と思わせてくれるのです。

心の奥に残る、やさしい光

人にやさしくすること。
施すこと。
損得ではなく、心の声に従うこと。

曾祖母の生き方は、今でも私の中で“静かな道しるべ”になっています。
40代を迎え、日々の暮らしの中で自分自身を見つめ直す機会が増えました。
そんなとき、ふと思い出すのが彼女の話です。

生き方は、語り継がれるもの。
たとえ会ったことがなくても、誰かの記憶の中で生き続ける。
私も、やさしさを受け取れる人でありたいし、そっと手渡せる人でありたい。
その思いを胸に、また一つ歳を重ねようと思います。

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