40代、“ていねいすぎる暮らし”をやめた日―コンビニの白湯に救われた理由

気づき

自分の呼吸すら、置き去りになっていた日

40代になってから、自分の心や体とどう向き合えばいいかを考える日が増えました。
けれどその日は、そんな余裕さえないまま時間が過ぎていました。

入院中の家族を見舞った帰り道。
病室では、気を張っていたからか、自分の気持ちに目を向けることができず、
「何かが足りないような、でも何もいらないような」
そんな不思議な感覚を抱えたまま、私はぼんやりと電車の窓から遠くの景色を眺めていました。

思考は空っぽ。
でも、ただひとつだけ「何かあたたかいものが欲しい」とだけ、静かに感じていたことを覚えています。

電車ホームで見つけた、コンビニの白湯

乗り換えの駅で、ふと立ち寄ったコンビニ。
いつもならコーヒーかお茶を選ぶところで、自然と目に入ったのが「白湯」のペットボトルでした。

手に取った理由も、明確には覚えていません。
ただ、「今の私には、これだ」と思えたんです。

電車を待つホームで、立ったままふたを開けて、ひと口。
その瞬間、喉を通るぬくもりに、張りつめていた気持ちがじんわりほどけていくのを感じました。

“ていねいじゃなくても、自分でいられる”という気づき

これはごほうびでも、誰かに褒められるような選択でもない。
でも、「今の自分に、これで十分」と思えた、静かな満足感。

かつての私は、「ていねいに暮らすこと」にずっとこだわっていました。
手作りのごはん、整った部屋、きちんとした身だしなみ。
それが“ちゃんとした大人”である証だと思っていたんです。

でも、あの日の白湯は教えてくれました。
「ていねいじゃなくても、ちゃんと自分でいられることがある」と。

“ちょうどいい暮らし”は、自分を責めないことから始まった

その白湯は、自分のために用意したものではなかったけれど、
確かに私をやさしく受け止めてくれる存在でした。

「ていねいにできない日」も、自分を責めずにいられるようになった。
それが、私にとっての“ちょうどいい暮らし”の始まりだったのかもしれません。


40代になって、「整える」という言葉の意味が少しずつ変わってきました。
がんばりすぎず、自分の呼吸と気持ちに寄り添える日々を大切にしたい。
そんな想いを、これからも綴っていけたらと思います。

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